絵画モデルはやめられない

20年間、絵画モデルをしていました。謎に満ちた世界の体験を余すことなく綴っています。

2017年08月

いよいよ、私が本格的に絵画モデルを始めるきっかけとなる出来事が起こる。

大学2年の10月くらいだったと思う。

油彩で裸婦を描く授業があり、モデルが来た。
恐ろしく均整のとれた、日本人離れしたプロポーションの女性で、年齢は30手前、といった風情だった。
彼女は結構頻繁に授業に来てくれるモデルさんだった。 

長い髪を垂らし、ゆったりとソファに座るというだけの実にリラックスしたポーズで、非常に描きやすくいい具合に絵の具が乗り、私はいつになくノリノリで制作していた。

驚くべきことに、生徒は私1人だった。他の生徒は絵を描くより他に楽しいことがあったようだ。

モデルと1対1で集中して制作に取り組んだ。
2時間の授業が週1回、1か月間に及んだが制作が終わらなかったのでもう2週ほど伸ばして下さいと教授に頼み込んだらOKが出、翌週もモデルさんが来てくれた。

ポーズが終わり、10分の休憩に入った。

モデルはガウンを羽織りストーブにあたっている。

生徒は相変わらず私1人だ。だからなのか、お互いなんとなく会話が始まった。

モデルさんと言葉を交わしたのはこれが初めてだ。

今思えば当時超人見知りの私がよくモデルなどという得体の知れない存在と話などできたものだ、と不思議でならない。1対1という状況がそうさせたのだろうか。

私「モデルって楽しそうですねぇ」
モデル「楽しいわよー。私がモデル事務所の社長してるんだけどね」
私「ええっ∑(゚Д゚)」

と会話は思わぬ方向に進んだ。まさかこの女性がモデル事務所の社長とは。
そして彼女がニコニコしながら
「やるぅ?」
と聞いてきたではないか。

謎めいたおもしろそうな世界の扉ががいきなり目の前で「ばっ!!!」と開いたのだ。

しかも「やるぅ?」と随分フランクに開いたではないか。
こんなに軽く開く扉だったとは露ほども思わなかった。

あまりに軽いノリで来てくれたのでかえって警戒心は起こらなかった。

私「あ…はい…やってみます…」
モデル「じゃあ、電話番号教えて〜」

小学6年の時の将来の夢は「漫画家かデザイナー」好きな歌手は「マドンナ」 。
正直言って絵画モデルなる普通じゃない世界にこんなにすんなり入っていく展開が人生に待っていようとは、思ってもみなかったね、幼い頃の自分。

社長は清田珠子さんといった。

私はたまさんと呼ぶことにした。

彼女も緑ケ丘高校と芸短(大分県立芸術文化短期大学の略称。緑ケ丘高校の付属の大学である。私が言う大学とはここのことだ。今更ながらカミングアウトするよ、もう。いつまでも伏せていては何かやりづらいのでね)の同窓生で、私より9歳ほど年上だった。
当時から優秀で、デキる女だったようだ。

それから2、3日して、思いのほかすぐに電話で仕事が入りだした。
 
当時はまだ携帯などなく、家の電話に連絡が入る。
場所と時間をたまさんが言い、私がそれをメモするという今となっては懐かしい方法だった。

(登場人物は全て仮名にしてあります。)
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私自身の、プロとして本格的なモデル開始のエピソードの前に、少しコーヒーブレイク的な話を紹介させて欲しい。

私は大分県立緑ケ丘高校というところに通っていた。
西日本唯一の芸術学校で、25年前当時は競争率3倍という人気校だった。
一学年には音楽科と美術科の2クラスしかない。

県内(遠くは山口から来ている人もいた)から選りすぐりの「小中学校の時はクラスで1番絵がうまかったぜ」的な40人が集まってくる。
そうなると高校においては絵が上手というのは当たり前のことであり、重要なのは「いい絵が描けるか」「良いセンスを持っているか」ということになってくる。
「お化粧上手ですね〜」と言われるより「君はいい女だね」と言われる方がよほど嬉しいがそれと同じだ。

1年生の時に、日本画・油絵・彫塑・デザインのひと通りを学び、2年生の時にどれか1つを専攻する。(ちなみに私は油絵を専攻した。)

1年生の彫塑の授業ではうさぎをモデルに制作する。

彫塑の部屋の一角にケージがあり、その中に「ラップ」という名前の、1羽の薄茶色のうさぎが住んでいた。
1年生彫塑用の専属モデルであり、かなりキャリアは長いようであった。
猫だと動くし、人間だとモデル代が高いし…と言うことでうさぎがちょうど良かったのだろう。

長時間モデル台に乗せられても、ラップは全く動かなかった。
台は回るようになっており、15分ごとに回転させて角度を変えながら制作していくのだが回す時もビクともしなかった。
制作側としては、ありがたいモデルだったのだ。

卒業してしばらくして、私がモデルとして緑ケ丘高校にやってきた時、ラップがいなったのでどうしたのか聞くと、死んだらしかった。

彫塑ではFRPやシンナーといった体にはよくないものを結構使う。
ラップは晩年はシンナー中毒のようになっていたらしく、死んで遺体を焼いた時に骨が全く残らなかったらしい。


芸術のために愚痴一つ言わず己の肉体を提供し、その仕事ぶりは完璧だった。
役目を終えたらきれいさっぱりいなくなった。
人間みたいに、墓に文字を刻んでくれなんて鬱陶しいことを一言も言わない。

考えてみたら潔い人生だったと思う。


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私のモデル初体験時は大学2年の時、今から20年以上前だ。当時のことを書き記した日記も実家にあって見ることができないし正直あまり記憶がないが、一生懸命思い出して書いていきます。

ある日の放課後、1人で教室で制作をしていると副手さんがやってきて「ミャーコさん、デッサンのモデルのアルバイトしてみない?楽しいわよぉ」と言われた。

社会人のおじさまおばさまたちの絵画教室があるのだという。

時給1500円だという。 当時の大分でアルバイトの基本給は700円もらえればいい方だったので随分いい話だし、他のきついアルバイトに比べてストレスなさそうだし、とにかく全体的に面白そうだったからやってみることにした。

私は西日本唯一の芸術専門高校である大分緑ケ丘高校に通っていた。
そこでもクラスメイトたちがお互いにモデルになってデッサンしあったりしていたが、実際お金がもらえる「仕事」としてモデルをしたのはこの時が初めてである。

デザイン課の広い部屋でデッサン会は行われた。
ポーズ20分と休み10分の組み合わせが4回の2時間の授業だった。

パイプ椅子に座るだけの楽なポーズだったし優しい年配の方はちやほやしてくれるし時間は短かった上3000円ももらえて、人生初のモデルのアルバイトは楽しいものだった。

当時のポラロイド写真が残っているが、私が来ていた服はレーヨンのテロテロのワイン色のシャツにこれまたテロテロのレーヨンのミニスカートだった。
これだと座りなおすたびに服のシワが変わるので、絵画初心者の皆さんには向かない服だったと今になって思う。

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大学1年の12月頃だったか。
油彩で裸婦を描く授業があり、19か20歳くらいの痩せ型のモデルが来た。
あまり見かけない人だったので新人さんだったに違いない。

しばらくいろんなポーズのクロッキーを経て、油絵制作用の固定ポーズに入った。

ポーズは、膝立ちの姿に決まった。

ただ膝で立っているだけで、上半身をひねったりという変化が何もなく、単調で面白くないポーズだったので私は嫌だったのだが大多数が「このポーズがいい!」と言ったので決まった。

タイムスケジュールは忘れたが
1日3時間がぶっ通しで1週間、とかもしくは1日2時間週1回が2ヶ月間とか、そのレベルの大変な長丁場の授業だったことは覚えている。

ヌードモデルでこの長丁場なので随分稼いだだろなあ…などとのんきな考えを吹っ飛ばすある恐ろしい想像が20年以上経った今でも未だに私の脳裏を占めている。

恐ろしいというのはズバリ、彼女が膝立ちのポーズだったということだ。

これは別名「ザ・膝砕けのポーズ」ともいう。(私がそう呼んでいるだけだが)


私自身、モデル時代にこのポーズを10分したことがあったが、途中で膝がガクガクと痙攣してきて感覚がなくなってしまい、とても続けられない。
これはせいぜい二、三分のクロッキー用のものであって、長時間の固定ポーズには絶対向かないのだ。

始めはきつくもなんともない普通の姿勢なので、何時間でもいける!何て思ってしまうので、経験の浅い場合はこの「膝砕けのポーズ」にやられてしまう。

合間合間に休みがあるとはいえその地獄のポーズを何十時間も取らされるのはこのモデルさんにしたら拷問だったろうと思う。

せめて短時間のクロッキーで気付けばいいものを、この長時間でしみじみ味わされるというのは苦しい。
いや、気づいていたものの、新人なので「このポーズは長時間は無理です、できません」とはっきり断る術ががわからなかったのかもしれない。

絵画モデルには実は地獄のポーズというものが他にもある。(地獄というのはあくまで長時間の場合)
「ザ・私一人にぶら下がるんじゃないよあんたらもちっとは稼いで家に入れろポーズ」
「ザ・ロダンの考える人ポーズ」
の2つだ。

「私一人にぶら下がる云々」の方は文字通り、例えば片方の腕とかなどどこか一箇所に体の全体重がのっかてしまうポーズをいう。

「ロダン云々」の方は足を組むポーズだ。なんていうことのない姿勢に思えるが、足の付け根に血液がうっ血してきてそれはそれは苦しいので長時間は絶対にやめたほうがいい。

これから絵画モデルを目指す人がいたらこの3つのポーズはうまいこと回避していくようにしよう。

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その日のモデルは、70歳手前くらいのおそろしく上品なおばさまだった。

学校側も時折こういう趣向を変えたことをする。

電車内でこっそり目の前の60代の女性をスケッチしたり自分の母親や祖母を描いたりすることは多いから、勉強のためにもおばさんもしくはおばあさんモデルはもっといていいと思う。

しかし

今日はクロッキーという、人体の大まかな流れ、動きを把握する作業だ。
(小学校の図工の時間に竹ペンの先に墨汁つけながら友達を一筆描きしたよね、あれがクロッキー!)

なのにこの女性はおそろしく上品な正絹のお着物を召していらっしゃった。

体の線からして全く見えなかった。

ポーズというポーズ、すべて正座である。
動きといえば片手を襟元にそっと添えて、わずか斜め前を向くくらい。
もともと本職のモデルではないだろうから、ずっと赤面してうつむきかげんでいる。
ポーズ変更になっても「ススッ…」と正座を崩すだけとか、ほんの少し横を向くだけ。

なんで着物着てきたんだろう。
誰か何も言わなかったのか。
前の「見えちゃった事件」の時のストリップスタイルのような、「着物着たおばさんはなかったよね。う〜ん、新しくていいんじゃない?」という学校側の妙な試みだった可能性は極めて高い。


ものすごく描きづらく、鉛筆の進みようがなかったので、私は1時間もせず教室から出て行った。
大好きな人物クロッキーの授業を放棄するのは後にも先にもこの時だけだった。

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