その日のモデルは、70歳手前くらいのおそろしく上品なおばさまだった。
学校側も時折こういう趣向を変えたことをする。
電車内でこっそり目の前の60代の女性をスケッチしたり自分の母親や祖母を描いたりすることは多いから、勉強のためにもおばさんもしくはおばあさんモデルはもっといていいと思う。
しかし
今日はクロッキーという、人体の大まかな流れ、動きを把握する作業だ。
(小学校の図工の時間に竹ペンの先に墨汁つけながら友達を一筆描きしたよね、あれがクロッキー!)
なのにこの女性はおそろしく上品な正絹のお着物を召していらっしゃった。
体の線からして全く見えなかった。
ポーズというポーズ、すべて正座である。
動きといえば片手を襟元にそっと添えて、わずか斜め前を向くくらい。
もともと本職のモデルではないだろうから、ずっと赤面してうつむきかげんでいる。
ポーズ変更になっても「ススッ…」と正座を崩すだけとか、ほんの少し横を向くだけ。
なんで着物着てきたんだろう。
誰か何も言わなかったのか。
前の「見えちゃった事件」の時のストリップスタイルのような、「着物着たおばさんはなかったよね。う〜ん、新しくていいんじゃない?」という学校側の妙な試みだった可能性は極めて高い。
ものすごく描きづらく、鉛筆の進みようがなかったので、私は1時間もせず教室から出て行った。
大好きな人物クロッキーの授業を放棄するのは後にも先にもこの時だけだった。
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